こんにちは

リフレーム・カウンセリングルームの平野 直美です。

東京では積もる程の雪が降り・・・道東もこれから大荒れになるようですね(><)

こちらを訪れて下さっている皆さまはいかがお過ごしでしょうか?



さて、以前 「虐待の世代間連鎖ということ ①」 を書きました ↓
  
    http://trackback.blogsys.jp/livedoor/naomiyo929/44830642


今回は「虐待」 保坂 渉氏:著 岩波書店 を参考文献としてまた一緒に考えてみたいと思います。


以下内容です ↓



受容しないことが最も基本的なアビューズ(虐待)だ

 精神科医・家族機能研究所代表 斎藤 学先生


情緒的ミルクが必要
 

 日本の社会では「親が愛する子どもを傷つけることなど考えられない」という
「家族神話」が根強く信じられている。それは精神科医や臨床心理士といった「心の病」を
扱う専門家の間でも同じだ。
 「子どもを虐待するのは特別な親」という偏見から、虐待がどこの家庭でも起り得る
家族病理や社会病理であるという視点に立ち、親や子どもの治療に取り組んでいる人たちは
まだ一握りにすぎない。家族機能研究所代表の斎藤学さんは、その数少ない専門家の一人だ。

(中略)

 一章から四章で紹介した子どもを虐待した四人の母親は、それぞれ育った家庭環境や
経済状況などはバラバラで、表面的には共通項はないように見える。
だがその生い立ちをたどっていくと、子どものころから、親や周囲の人たちに受容された体験が
ないまま成長してきたことがわかる。
 受容は人間が健康に成長していくためには欠くことのできない「心のミルク」のようなものだ。
「心のミルク」が十分に与えられないまま育つとどうなるのか。
「受容」という言葉を手がかりにして虐待の問題を考えてみたい。
 斎藤さんは、なぜ親が子どもを虐待するのかその背景を解き明かしていく上で、
虐待する親自身の受容体験が重要なカギになると言う。
 「子どもは親から「こういうのを親バカというのかね。あんたが何をやってもかわいいよ」
と言って受容してくれる情緒的ミルクが必要なんです。こうした「あるがままのお前でいいんだよ」
という親の受容があってこそ、子どもは「世の中に生きていていいんだ」
という自分自身に対する信頼を持つことができる」
 子どもはさまざまな欲求行動を通して親に愛情を求め、親はそれを受け入れることによって
安定した親子関係が構築されるわけだ。
 ところが親が子どもからの愛情欲求に応じなかったり、愛情を求めることを禁じて受容しなければ
子どもは「親から愛されていない」「自分は生きている価値がない」と、親の態度や言葉によって
生きる誇りや自信を失ってしまい、心に深い傷をつくることになる。

 「子どもが必要なときに親から受容という情緒的ミルクを与えられないのは、子どもが成長していく上で、
それ自体が最も基本的なアビューズになるんです。子どもの自己肯定感を傷つける親の態度は、
暴力があろうがなかろうが虐待そのものです」
 虐待は一般には身体的虐待、性的虐待、心理的虐待それにネグレクトの四つに分類されている。
私たちは虐待という言葉から、子どもを殺してしまったり、瀕死の重傷を負わせる残酷な親を
想像してしまうが、実際には親が暴力を使った虐待は一部にすぎない。

 斎藤さんが指摘するように、親が子どもからの愛情欲求を受け入れず、子どもの心を傷つけることが
最も基本的な虐待であるとすれば、まさに虐待は特別な親だけが引き起こす問題なのではなく、
どこの家庭で見られても不思議ではない光景なのだ。
 「子どもの虐待は英語の「チャイルド・アビューズ」の訳なんですが、本来は子どもの養育に責任を
持つ大人の子どもに対する不適切な行動や態度の総称なんです。
虐待と訳すと、そこに込められたいろいろな意味が落ちてしまうことに、注意しなければいけない。
親が子どもに暴力を振るったり、口汚く罵らなければ虐待にならないかというとそんなことはない。
外からは子どもをやさしくやさしく育てているように見えても、子どもが必要としている時期に
情緒的ミルクが全然ない家はいくらでもあります。
親の生産性が高く知的な家庭ほどそうではないでしょうか。お金と時間をかけて子どもを育てるが
基本的には愛がない」
 親が子どもを受容しないという不適切な親子関係が先にあって、それが身体的虐待や
性的虐待などと分かちがたく結びつくことになる。
 「身体的な虐待や性的虐待があって受容されているということはちょっと考えにくいですからね。
性的虐待では「お前がかわいくてしかたがないんだよ」みたいなところから入っていく場合もありますが
「私は望まれて生まれてきた」と思っている子はそこで「何するのお父さん」と峻拒できる。
ふだん父親から受け入れられていないという強い感情を持っていて「受け入れて欲しい」
と思っている子が被害者として、また被害を繰り返す子として何年もそういうところにとどまるわけです」
 





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さて、一緒に考えてみたいと思いますので、一旦 平野に戻りますね。

こちらを訪れて下さっている方々の中で、「ご自身がおかしいのではないか?」と

感じられていて、悩んでいらっしゃる方も中にはいらっしゃるかもしれません。

いつもまわりの人とうまく関われないと感じていたり・・・

いつも怒りや悲しみの表現のコントロールができないとご自身を責めていらっしゃったり・・・

理由もわからないけれどもず、漠然と「消えたい・いなくなりたい」と感じられたり・・・

理由がわからなければ「私がヘンだからこう思っちゃう?」

という思考になってしまうことは私はごくごく自然なことかもしれないと思っています。

でも、本当にご自身がヘンだから、そう感じられるのでしょうか?

ここに書かれてある本来ならば

子ども時代に必要であった「受容」「心のミルク」は十分に満たされてたと感じられていますか?

親が子どもからの愛情欲求に応じなかったり、愛情を求めることを禁じて受容しなければ
子どもは「親から愛されていない」「自分は生きている価値がない」と、親の態度や言葉によって
生きる誇りや自信を失ってしまい、心に深い傷をつくることになる。

と書かれていますね。

その通りだと私は思っています。





では、ここからまた参考文献に戻りますね ↓


 では子どもが親から受容されないと、どんな問題を抱え込むことになるのだろうか。
子どもは「親から愛されていない」というメッセージを受け取ると、
自分は「親に愛される価値もないのだ」という自己否定感を強く持つ。
 「受容体験のない子どもは自己評価が低いですから、どうしても「もっといい子にしていなきゃ
親に受け入れられないんじゃないのか」と思い込む傾向がある。
親に気に入られるように振る舞い、そのためには自己主張をせず、自分の感情を押し殺して
「いい子」を演じようとする。自分に自信がなくて傷つくのが怖いから、自分の行動を
「このぐらいだったらいいですか」と言って、いつも親や世間の顔色をうかがいながら、
迎合していくというのが彼らの生き方です」
 子どもが親に受け入れられようと、自分の欲求を抑え込み「いい子」を強迫的に演じるとき、
子どもは自分のためではなく親の欲求を満足させるために行動することになる。
 本当であれば、親が子どもの欲求を満たす役割を果たして子どもは満たされるはずなのに、
親子の役割が逆転してしまい、子どもは親に利用された人生を生きなければならなくなる。
 しかも、こうした子どもは相手の欲求を満たすという行動を、親に対してだけでなくどこでも再現する。
自分の顔を隠し相手の顔色をうかがう生き方は、感情を鈍磨させ生きる喜びも消し去ってしまう。
 子どもにとっては当然強いストレスとなるが、自分が受け入れられているという安心感がないので、
ますます相手の欲求を満たそうとする悪循環に落ち込みやすい。
それは四人の母親の軌跡を見てもよくわかる。子どもが自分の人生でなく親に利用された人生を
生きることは、暴力的な意味合いが濃い虐待のイメージとは結びつきにくいが、
心を殺されていく虐待であることがはっきりする。
 「虐待の親を治療していて一番むずかしいのは、「いろいろあったけど、結局、私は世の中に
受け入れられていないんだ」という受容体験の欠如による心の傷が、最後まで残ってしまうことなんです。
自分が子どものころ親に暴力を振るわれたりした虐待の場面を思い出す、フラッシュバックに
苦しむことは珍しくありませんが、それは比較的早く取り去ることができるんです。
でも子どもが親に受容されず、逆に親の欲求を満たすために利用された傷は、誰か受容してくれる
人にめぐり会えればいいのですが、大人になってもさまざまな心理的な不適応をもたらす原因になり、
最も厳しいアビューズではないでしょうか。
 親が受容することなく子どもを利用するという虐待では、子どもたちは必ずしも親に受け入れて
もらおうと「いい子」を演じきれるとは限らない。時には受容されない怒りや苦しみが、想像を
絶する強烈な攻撃的なエネルギーとなって外に向かうこともある」




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ここから、再び平野に戻ります。

「子どもが親から受容されないと、どんな問題を抱え込むことになるのだろうか」

ということについて書かれていますね。

子どもは「親から愛されていない」というメッセージを受け取ると、
自分は「親に愛される価値もないのだ」という自己否定感を強く持つ。

この子どもの心理は私は当然だと思います。

なぜなら子どもは、親を愛しているからです。

たとえ、どんな親であっても無償の愛を求め、それが叶わぬことだと子どもながらに理解し

絶望しながらでも育つということを考えると、子どもって本当に健気ですね。



そして

 「受容体験のない子どもは自己評価が低いですから、どうしても「もっといい子にしていなきゃ
親に受け入れられないんじゃないのか」と思い込む傾向がある。

と書かれていますね。

過去の私自身の「自己評価の低さ」についてはこちらで散々書いてきましたね(笑)

大人になってからもまわりでなにか問題が起きると、自分は全く悪くないのに

いちいち「私のせいか?」とビクビクするような人生でした。

まわりの集団がなにかコソコソ話していたら、自分のことを言われている訳ではないのに

「私のことを悪く言っている?」といちいち反応したり。これらは無意識レベルで起こっていましたので無自覚でしたが。



親に気に入られるように振る舞い、そのためには自己主張をせず、自分の感情を押し殺して
「いい子」を演じようとする。自分に自信がなくて傷つくのが怖いから、自分の行動を
「このぐらいだったらいいですか」と言って、いつも親や世間の顔色をうかがいながら、
迎合していくというのが彼らの生き方です」


私はケアに繋がるまで本当にこの通りに生きていました。

自分の感情をいつも押し殺して相手に合わせた、いい子を演じようとばかりしていると

自分がいったいなんなのかわからなくなっても不思議ではないと私は自身の経験からそう思います。

世間様の顔色もいっぱいうかがってきました。

「ひとに迷惑をかけるな」「ひとに笑われないようにしろ」

「お前のせいでうち(家)が世間(隣近所や親戚など)に笑われる」

などの言葉や態度(非言語)がいつもあると、とても辛いと思います。

今は心の傷を癒して何年も経ちますので自己評価はとても上がりましたが

それでも「傷付く」ということを「過剰に」恐れている自分も時々は存在しています。

相手に見捨てられて自分が傷付くのが怖いから最初から人と深くは関わらない癖がある・・・とか。

「人は自分を裏切るものだ」

「でも私は強いから裏切られても全然、大丈夫だから」を前提にそこ覚悟してから関わる傾向がある・・・とか。

本当は「自分をひどく裏切る人ってそんなにはいない」と既に知っていたり

もしひどく裏切られるような体験があったとしたら

その時はもちろん傷付くのは悲しいのに!です(笑)



癒してもトラウマはゼロにはなりませんが、もちろん今ではここに翻弄されなくなっている

自分がいます。生涯通して繋がり合っていたい先行く仲間・共に行く仲間もいっぱいできました。


心を殺されていく虐待であることがはっきりする。

と書かれていますね。

繰り返しになりますが本当にその通りだと私は思っています。

まずは「自分の心の傷に気付けて」本当に良かったと思っています。

そして「虐待の世代間連鎖に犯人はいない」という知識を頭だけではなく

身体にストンと落とし込ませられるまでケアを受け続る選択をしてきて本当に良かったと思っています。



生きていくことが本当に楽です。







それでは、また



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